『例題会話:はじめまして! 今日はどこへ?』
「はじめまして。これから公園へ行きます」
『例題会話:いい天気ですね。今日は暑くなりそうですから、ウェザースーツがいりますね』
「はい。ちゃんと着ています。あなたはどこへ?」
『例題会話:私はこれから三ポート先の花屋へ行きます。それから祖父のお墓参りへ』
「お墓参り? 遺品の記憶データにアクセスすればいいんじゃないですか?」
『例題会話:今日が祖父の命日なんです。こんな日は直に触れたいですから』
「そう。……えーと、何にですか?」
『例題会話:墓地に残してある骨片にです。デジタルデータじゃないんですよ? 有料でしたが両親がちゃんと残してくれたんです。同じ日に私が生まれたので』
「あなたの誕生日にお祖父さんが亡くなってしまったの?」
『例題会話:そうです。だから今日は我が家の記念日なんです。あなたの誕生日はいつですか?』
「えっ?」
『例題会話:あなたの誕生日はいつですか?』
「……」
そんなことを聞かれても。
うーんと唸っている間に時間切れのジングルが鳴って、模擬会話テストは終わってしまった。
「えっ、あれでたった六十点? 詰まったのは最後の会話だけじゃない? 厳しすぎない? ……と言うか、誕生日なんて知らないんですけど」
タブレットの画面に文句を言ったつもりなのに、向こう側のソファで昼寝していたはずのサスケが欠伸しながらこう言った。
「百三十二日前だろ」
「どうして?」
「ここで俺たちが出会った日。管だらけのベッドから降りてここまでたどり着いてさ~、お互い初めて自分以外の人間を見た日ってこと」
「ふうん。仮にそうだとして、それって何月何日って言えばいい?」
「はあ?」
サスケはだるそうに体を起こし、ソファの背もたれに細い顎を乗せた。くせ毛の黒髪を掻き上げながらにやっと笑う。
「……アドってさあ、まさか休憩時間も接触シミュレーションの得点のこととか考えてんの? 真面目かよ」
「違うわよ。ただ、誕生日なんて、そんなの考えたこともなかったなって思って」
ここは休憩エリアという場所で、私たち訓練生が自由に利用していいエリアの一つだ。
白がベースカラーの、片側の壁に大きなガラスが嵌め込まれた部屋で、その向こう側には木立が見えている。その梢は穏やかに揺れていて、斜めに入る明るい光が細波のようにエリアを照らしていた。いつ来ても清潔で快適なスペースだ。
「ちなみに俺、前回それ聞かれたな~。練習じゃなくて、マジの接触シミュレーションで」
「えっ、本当? まずいなあ」
「つうか、苦手な話題だったらさっさとそらしちまえよ。暑さ寒さでもリンク中のコンテンツでも何でもいいだろ」
「私、サスケみたいに器用じゃないもん」
「器用とか関係ねえよ。日常会話レベルのトピックなんだから答えくらい用意しとけよな……あ、エヌのテストでももう出た? 誕生日の質問て」
ぱっと体を起こして、サスケはちょうど休憩エリアに入ってきたもう一人の訓練生に話しかけた。
彼はすらりと背が高くて、いつ見ても制服には皺ひとつ入っていない。
サスケのジャケットは大抵だらしなく辺りに脱ぎ捨ててあるけれど、彼はそのジッパーもきちんと襟まで上げて閉じてある。これで顔立ちまで端正なのだから、初対面ならつい、礼儀正しい好青年を期待してしまうだろうと思う。
でも残念。中身はまるきり別人だった。
エヌはちらっとこちらを見たきりで、返事さえしなかった。いつものことだからもう私たちも気にしない。サスケはすぐに聞き方を変えた。
「誰かに誕生日を聞かれました。模範回答はな~んだ?」
「昨日」
私の後ろを通り過ぎながら、エヌは短く答えた。
訓練生としての総合成績トップは彼がずっとキープしている。それもぶっちぎりで。
私とサスケがどんなに頑張っても、抜けるのはせいぜい得意科目単体でだ。それ以外で抜けた試しはなかったし……これから抜ける気もしない。
「ええっ」
「俺と同じか。いや、俺はもうちょっと余裕を見て三日前って回答したんだけどさ~。さすがに昨日なんて言うのはわざとらしくね~か? ま、でもエヌが言うなら昨日でも正解になるんだろ~な」
「ちょっと待ってよ、話についていけないんですけどー」
私は長い巻き毛をいじくりながら割り込んだ。
「どうして正解が昨日になるのよ? 何月何日って答えないといけないんじゃないの?」
二人は面倒そうに顔を見合わせた。悲しいけれど自覚はある。三人の中で講義科目の補習を一番受けているのは私だ。
「エヌ、お前、たまには説明してやれよな~。いっつも俺の役目になってるだろ」
エヌはこのエリアに用があったわけではないらしい。サスケの提案をもちろん無視するだろうと分かっていた私は、素早くテーブル二つを飛び越えてその前へ回り込んだ。
「教えてよ。明日のシミュレーションテストで出たら困るじゃない」
エヌの反射能力なら、私を避けられたかもしれない。
彼がそれを試さなかったのは、多分、その騒ぎで辺りのソファやテーブルがひっくり返るところを見たくないからだろう。几帳面な優等生はしぶしぶ口を開いた。
「日付で答えてもいい。でもその世界の暦がお前の頭に入っているならの話かな。僕はそんなの面倒だから『昨日』を使う。それだけだ」
「そっか、なるほど」
頷きかけて……私はすぐに次の疑問を思いついた。
「じゃあ『今日』や『明日』でもいいのかしら? それとも『昨日』や『三日前』じゃないといけない?」
いつも冷静なエヌの顔に驚きが浮かんだのを見て、さすがに私もきまりが悪くなった。今度はどんなおかしな質問をしてしまったのだろう。
あちら側でサスケが体を折って笑い始めた。
「……人間は誕生日に、何をすると書かれてる? アドリエンヌ」
「『祝う』かしら。時代や場所によって違うみたいだけれど……だいたいは集まってお祝いする。儀式をする場合もある。贈り物をすることもある。でも、それが?」
「それが? そんなことにお前はいちいち付き合うつもりなのか? 僕らの貴重な『時間』を使って」
「あのな~、アド」
サスケも笑いをこらえながら言う。
「昨日って言っとけばとりあえず次の三百六十四日はその質問に関わらずに済むだろ? 今日なんて言っちまったら、面倒なことになっちまうだろうが。お前がさっき自分で『祝う』って言ってたじゃん」
「あっ」
そこまで聞いて、頭の中でようやく理屈がつながった。
私はシミュレーションの目的、つまり『任務』のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
「り、理解しました……」
「あっ、じゃね~よ。もしお前がテストで適当に答えてたらまた補習だったなあ? ってなわけで俺とエヌに何か奢れ」
「僕はいらない」
感心している私を残して、今度こそエヌは休憩エリアからさっさと出ていってしまった。
「はあ……。じゃあ、チョコホイップ乗せパンケーキでどう?」
「オーケー」
私は溜息をついて、手首に付けたIDリストレットに触れた。
目の前の空間にデザートのイメージ映像が流れるように広がっていく。呼び出したデザートカタログだ。それを人差し指で追って、私は手早くパンケーキを選んだ。
配送先はサスケの個人ルーム。タイミングは夕食後。
IDリストレットにはそれぞれの訓練生証とそれに付属する決済、カメラやトーク機能などがまとめてインストールされている。
少し迷った挙げ句、私はパンケーキをもう一つ注文し、もう一人の孤独好きな同期生にも送ってみた。
ここで私たちが受けているのは、どうやら『教育』のようなものらしい。
それからここは、アーカイブで言うところの『学校』のように見える。
でも、もしここを『学校』と呼ぶとしたら、かなり特殊な施設だと思う。
いわゆる授業を受ける講義エリアはもちろんある。それに加えて、ここには私たち三人が生活するための全ての機能がくっついているからだ。
つまり、私たちはここから出る必要がなかった。
外に通じるドアは通路にも部屋にも見あたらない。天井には換気口があり、私たちが必要とする酸素はそこから供給されているものの、施設の下層にある巨大な空調設備にしか行き当たらない。これは身軽なサスケが潜り込んで確認済みだ。
ついでに言うと、休憩エリアにあったガラスの外の風景も本物じゃない。
どのエリアにも同じような窓があって、私たちはどこでも夜明けと日没が繰り返される美しい景色を楽しめる。
けれどもここで暮らし始めてから間もなく、私たちはそれが嵌め殺しで、そこに映っているのはただの映像と照明に過ぎないと気がついた。幾つかパターンはあっても、飛ぶ鳥の影や葉からこぼれて窓に当たる雨露は、いつも同じ軌跡と形をしていたからだ。
食事をとるための食堂もある。
『先生』によれば、食材は別にある生産区域から動植物の組織培養によって調達されてくるらしい。
それらを材料にした、百種類近くもあるメニューの中から、私たちはいつでも好きなものを食べられる。毎朝行われる体調チェックの結果によっては制限がかかるらしいけれど、私は今のところセーフだ。
人間の調理スタッフはいない。
オーダーしたメニューは自動調理されて、生活エリアにあるそれぞれの個人ルームか、食堂にある受取口から出てくる。
私のささやかな不満は、そのメニューにデザートが含まれていないことだった。
お菓子や果汁を一定量含まないジュースは、ここでは娯楽・嗜好品になっている。
嗜好品は私たちの成績に応じて与えられるポイントを消費しないと注文できない。私がサスケたちに送ったパンケーキ、あれもそうだ。私は自分のポイントを使って注文したのだった。
この場所は。
この空間は、と言い換えられるかもしれない。
ここは、ここ以外のどの世界からも遮断されていた。
(2020.11.20 改稿分に差し替え)